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【辺野古問題】普天間基地からの移設の基地問題。いつから?解決策はあるのか?

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【普天間・辺野古問題】沖縄県や知事の対応と現状をわかりやすく解説!

みなさん一度は聞いたことがある「辺野古問題」。どんな問題なのかわかりますか?聞いたことはあるけど…といった人が大半だと思います。ここでは複雑な辺野古問題を分かり易く徹底解剖していきます。

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「最低でも県外」普天間基地からの移設の経緯

まずは、普天間基地からの移設が求められた背景や辺野古案にまとまった流れなど、問題の経緯を解説します。

歴史

「普天間・辺野古問題」とは、米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設に伴う新基地建設をめぐる問題です。現在まで問題が解決されない理由を歴史から見ていきたいと思います。

第二次世界大戦の沖縄戦ではたくさんの住民が犠牲となり、戦後も米軍は居続けました。日本に沖縄が返還された後も、沖縄の米軍基地負担はとても大きなものでした。そんな中、日本中が沖縄の米軍基地負担に注目するようになる大事件が起こる事になります。1995年9月に米兵3人による少女乱暴事件が起こりました。この米兵3人は米軍基地内に逃げ、米軍が拘束しました。しかし、日本側に引き渡されることはなかったのです。

なぜ引き渡される事がなかったのでしょうか。それは、戦後の「日米地位協定」という取り決めによるものです。この取り決めによると、米兵が日本で犯罪を犯しても日本側に引き渡す義務はない。そのため、重い罪を犯しても、基地内や米本国へ逃げることで”逃げ得”をしてしまう事案が相次いでしまうのでした。

少女乱暴事件をきっかけに、蓄積を続けてきた沖縄県民の怒りは頂点に達することになりました。同年10月21日には県民総決起大会が宜野湾市で開かれ、約85,000人が参加しました。同日に宮古で約2,000人、八重山で約3,000人が参加した郡民総決起集会が開かれ、「日米地位協定」の見直しや米軍基地の縮小を求めました。

これを受けた日本政府は、沖縄にある米軍基地の整理・縮小についてアメリカ政府と話し合い、米軍普天間飛行場を含む11の施設の返還について1996年に合意(SACO合意)しました。11ある米基地のうち7施設は、沖縄県内への移設が条件となりました。しかし、県内移設を前提とした合意は県民の思いとは遠く、移設先の合意を得るのは難しいものとなりました。そうした中、普天間飛行場は移設先候補の中から名護市辺野古の沿岸が有力になりました。

普天間・辺野古の政治争い(県・市政)

普天間・辺野古をめぐって、政治の世界においても様々な動きがあります。名護市長選挙や沖縄県知事選挙では、普天間・辺野古問題は大きな争点となりました。

1998年2月、大田昌秀知事が辺野古への海上基地受け入れ拒否を表明しました。しかし、1998年11月の知事選挙では政権与党の自民党が推す稲嶺恵一氏が大田氏を破って初当選し、名護市への移設を条件付きで受け入れることを表明しました。

当初は辺野古の約2キロ沖合の海上に代替施設を造る計画が進められていました。しかし、日米政府は2006年の米軍再編合意で、基地内から工事を始められる米軍キャンプ・シュワブ沿岸部に移設場所を変更し、V字形に滑走路を建設する現在の計画ができたのでした。海上基地から沿岸部埋め立てに変更になったことで住民の生活地域により近づくことになったため、地元の反対は一層強まることとなりました。

「最低でも県外」

2006年11月〜2014年11月。この間、日本政府は2回の政権交代があり、政府と県の関係は、辺野古移設に対する姿勢は複雑な経過をたどりました。2009年9月、自民党から政権交代を果たした民主党政権の鳩山由紀夫首相は発足当初、「最低でも県外」と普天間飛行場の県外移設を表明しました。

最初は県外移設を掲げた民主党政権ですが、県外の移設先候補地と合意を得られないなどとして、2010年5月には、辺野古を移設先とする日米共同声明を発表しました。仲井真知事の下、県は2013年12月に辺野古の埋め立て申請を承認しました。辺野古の工事について国は今、基本的にこの承認を根拠に進めています。

政府・与党側の主張 

政府・与党は、とりまく安全保障環境の悪化を懸念しています。これには、中国の海空軍は増強が進み、沖縄の島である尖閣諸島周辺での中国海警局公船の徘徊(はいかい)や領海侵入が増加しているといった背景があります。

このような情勢下で、辺野古移設のめどが立たないまま、普天間飛行場の機能の放棄はできないとみています。

在沖縄米軍の抑止力を保ち、住宅密集地にある普天間飛行場の危険や住民の不安を最小限に抑えるためには、辺野古移設が必要だとしています。県は移設反対の方針を撤回するよう、沖縄県と交渉を進めています。

沖縄県、翁長前知事・玉城知事の対応

ここからは、沖縄県や知事の対応についてみていきます。

翁長雄志知事時代

辺野古移設への反対姿勢を示していた翁長雄志が、2013年に名護市辺野古への移設のための埋め立てを承認した仲井真弘多知事を破り、2014年11月の知事選挙で初当選します。

その後、工事を一時停止して国と沖縄県側で協議を進めましたが、協議は決裂してしまいます。2014年10月には、翁長知事が埋め立ての承認の取消しを行い、国は承認の取り消し撤回を求めて提訴するなど、事態は複雑になっていきます。

玉城デニー知事時代

2018年8月には翁長雄志知事が死去し、その後の県知事選挙では、辺野古移設反対の姿勢を引き継いだ玉城デニー現沖縄県知事が当選します。2019年には、県民投票が行われ反対が7割を超えるものの、法的効力はなく裁判・埋め立て工事は進んでいきます。2024年2月には、最高裁判決が出され、辺野古移設への工事の承認取り消しを取り消した判決が違法だと提訴した沖縄県側の敗訴が確定します。

移設反対派の市民団体の主張

「辺野古を止める!全国基地引き取り緊急連絡会」の声明では、「私たちは、戦後ずっと日米安保条約を保持してきたが、基地の平等な負担は拒絶し、問題を沖縄に押しつけてきた。」「米軍基地がどうしても必要なら、私たちはそれをヤマトにおくべきではないか」など、基地問題が構造的差別であることを説明しています。

「私たち一人ひとりが、自らの責任と良心に基づいて判断しなくてはいけない。私たちには、この国の主権者として、沖縄に対する差別的政策をやめる責務がある」と主張し、普天間基地の辺野古移設に反対しています。

裁判

米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設工事を巡り、国が沖縄県に代わって設計変更を承認する「代執行」に向けた訴訟で、福岡高裁那覇支部は玉城デニー知事側の主張を退け、国勝訴の判決を言い渡しました。設計変更の承認では、9月の最高裁判決でも県が敗訴している。高裁は今回、玉城氏が最高裁判決後も承認しないこと自体が「社会公共の利益を害する」と厳しく断じ、速やかに承認するよう命じました。

まとめ

長年、議論が続いている辺野古問題。日本の安全保障と現地住民の理解など、様々な論点があります。安全保障や沖縄の政治を語る際には、外せないテーマであると言えるでしょう。

参考になるサイト

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政経百科編集部
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