【石原慎太郎】都知事・作家の経歴・生い立ち・学歴・思想・政策などを解説!
石原慎太郎元東京都知事・衆議院議員を解説
10年以上にわたって東京都知事を務めていた石原慎太郎。弟が昭和の名優、石原裕次郎であることや、そのほかの兄弟や親族にも大物が多いことで知られています。
しかし、彼が都知事を引退したのが12年前ということもあり、若い人たちにはあまり知名度がないのではないでしょうか。
今回は、そんな石原について解説していきます。
プロフィール
生年月日:1932年9月30日
没年月日:2022年2月1日(享年89歳)
職歴:作家→参議院議員→衆議院議員→東京都知事→衆議院議員→政界引退
学歴:神奈川県立湘南高校→一橋大学法学部
主な親族:石原裕次郎(作家)、石原伸晃(衆議院議員)、石原宏高(衆議院議員)、石原良純(俳優、気象予報士)など
政治家になるまでの生い立ち
石原は1932年、兵庫県の神戸市で生まれました。その後は北海道の小樽市や神奈川県の逗子市を転々とし、神奈川県立湘南高校を経て一橋大学の法学部に進学します。
高校時代はサッカー、大学時代は柔道に励んでいたそうです。
大学へは公認会計士になるために進学しましたが、会計士には向いていないと悟った石原は、休刊中だった一橋大学の同人誌「一橋文藝」の復刊に尽力します。
在学中に小説「太陽の季節」で芥川賞を受賞した石原は、その後も「処刑の部屋」「聖餐」など多くの作品を世に出しました。演劇や映像にも積極的にかかわり、弟の裕次郎を世に送り出すなど、多大な活躍をしました。
国会議員時代
1967年10月3日、自民党は選挙対策本部を開き、翌年の参議院議員通常選挙の第二次公認候補として、全国区11人、地方区9人の20人を発表しました。石原もこの中に含まれていたのです。
1968年7月に立候補した石原は、中曽根康弘や鈴木宗男らのバックアップにより当選。そして1972年12月、石原は第33回衆議院議員総選挙に旧東京2区から立候補し当選しました。
1975年2月に石原は中曽根の要望を受けて東京都知事選に立候補しますが、僅差で敗れてしまいます。その後も衆議院議員を務めていましたが、1995年4月14日、衆議院本会議場で「日本の政治はダメだ。失望した。」と言う旨の演説を行い、衆議院議員を辞職しました。
東京都知事時代
それから4年後の1999年4月、石原は東京都知事選挙に立候補します。他の候補をしり目に圧勝し、以後4期14年にわたる長期政権を築き上げ、様々な政策を推し進めました。
当時行われていた経済政策であるアベノミクスに関しては、石原は「何としても成功させてほしい」と安倍晋三総理(当時)に秋波を送り、国会の会計についても「この国には健全なバランスシート、財務諸表がない。国は何で外部監査を入れないのか。」と、石原が都知事時代に導入した複式簿記・発生主義会計を国にも導入するよう求めました。
さらに2021年に行われた東京オリンピックでは旗振り役を務め、2016年以降の夏季オリンピック招致を正式に表明しました。
また、黒いすすが入ったペットボトルを記者に示すなどして、効果的にディーゼル車の排ガス規制を推し進めました。
さらに、当時非常事態宣言まで出るほど悪化していた都の財政を、職員削減や給与カットなどを行い改善しました。都の財政が悪化した原因は、バブル崩壊後に税収が大きく落ち込み、かつての青島都知事の政策も功を奏さなかったからでした。
徹底した改革のすえ、石原は2007年に「財政再建は一つの区切りを付けた。大きな節目になる予算が仕上がった」と財政危機からの脱却を宣言。
他にも、石原は道路網の整備を行って渋滞の緩和に取り組み、外郭環状道路の建設や羽田空港の国際化など、交通インフラの構築にも尽力しました。
しかし、石原が中小企業の経営を支えるために設立した「新東京銀行」において、開業後わずか3ヶ月で1000億円の赤字を抱える事態が発生。無担保での融資など、ずさんな貸付が原因でした。
2012年10月、政権交代の嵐が吹き荒れる中、石原は都知事の職を辞し、国政に復帰しました。
国政復帰と国政政党代表として
国政に復帰した石原でしたが、この時すでに80歳でした。しかし彼は政務に精力的に取り組み、当選時に党を代表して国会での質疑に立っています。しかし2014年の衆議院解散や自身の高齢・体調悪化などに伴い、選挙前の引退を示唆しました。
ところが、自身が党首となっている「次世代の党」の強い希望もあり、石原は比例順位最下位の9位で立候補します。これは、「後輩を1人でも多く当選させたい」という、彼の願いによるものでした。
結果として、石原は落選してしまいます。選挙後に開いた会見で、石原は、わりと晴れ晴れとした気持ちで政界を去れるとの見解を示しました。
引退後
引退後の2015年、石原は旭日大綬章を受賞しました。
そして2021年10月、石原は病院ですい臓ガンの再発と、「余命3ヶ月ほど」の診断を受けます。最期の3ヶ月について、次男の石原良純氏は「最後の1週間だけ」迫り来る死と闇夜を怖れているように見えたことを証言していました。
2022年2月1日、石原氏は東京都大田区の自宅で逝去しました。元首相、安倍晋三らが発起人となってお別れの会が行われましたが、安倍晋三はその1ヶ月後、暗殺者が放った銃弾によって、石原の後を追ってしまうことになります。
政策
石原氏は都政・国政ともに数々の政策を実行してきました。以下にジャンル別に解説します。
財政再建
石原が都知事に就任したとき、都の財政は危機的な状況でした。そこで、4年間で5千人の職員削減や職員給与4%カットなどを盛り込んだ第1次財政再建プランを、03年には更に4千人の職員削減などを盛り込んだ第2次プランを策定。
2期目の07年度予算編成時には財政危機からの脱却を宣言しました。
福祉改革
「コストが拡大し続ける福祉分野で、行政が税金のみを源泉として直接サービスを提供する現行方式は限界」として、「直接給付」から「サービス給付」に転換。老人医療費助成や老人福祉手当、シルバーパスなどの経済的給付事業を廃止・見直しを図りました。
一方で、高齢者福祉センターや障害者通所施設の拡充、都独自の設置基準を設けた認証保育所制度の創設などを打ち出しました。
尖閣諸島
石原は都知事時代の2012年、東京都による尖閣諸島購入プランを発表しました。そして同年9月11日、内閣総理大臣野田佳彦氏は魚釣島、北小島、南小島の3島を海上保安庁に20億5千万円で埼玉県在住の地権者から買取らせ、所有権移転登記を完了し、尖閣諸島を国有化しました。
外交・安全保障
北朝鮮や中国に対しては厳しい姿勢で臨み、日本の核武装に賛成しています。また、靖国神社の参拝にも積極的です。他にも、中華民国(台湾)との友好関係の構築や、中国に対する批判なども積極的に行ったため、しばしば賛否を巻き起こしました。
主要な著書
- 『太陽の季節』
- 『理由なき復讐』
- 『狂った果実』
まとめ
作家から政治家への転身という異色の経歴を持つ石原。この記事で紹介した彼の人生や政策、著書は全体のごく一部ですが、平成の政治史について論じるうえで非常に重要な政治家ですので、この記事を通して概要をつかんでいただければ幸いです。
参考になるサイト・資料
- ANN|【ノーカット】石原慎太郎氏 議員辞職 国会演説と記者会見(1995年)【映像記録 news archive】|https://www.youtube.com/watch?v=yLrIERCzfPY
- 産経新聞|次世代・石原慎太郎氏は比例名簿下位に 「後輩を1人でも多く」|https://www.sankei.com/article/20141129-62XE24F7QJIHRI47D7A3R5CGZE/
- 産経新聞|引退会見詳報(1) 「晴れ晴れと政界去れる」|https://web.archive.org/web/20141216111404/http://www.sankei.com/politics/news/141216/plt1412160039-n1.html
- ANN|「精進いたします」石原慎太郎さんらに陛下から勲章(15/05/08)|https://www.youtube.com/watch?v=xGBZipqm3Ys
- 時事.com|石原慎太郎さんが遺稿 余命宣告後の心情つづる|https://web.archive.org/web/20220309141909/https://www.jiji.com/jc/article?k=2022030900659
- Sponichi Annex|石原良純 石原慎太郎さんの最後の日々「死ぬぞ、3カ月で」と告白され最後の1週間は「寝るのを怖がって」|https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/05/20/kiji/20220520s00041000317000c.html
- 日本経済新聞|石原氏、五輪招致の旗振り役 失敗に涙・再挑戦に道筋|https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCC018A20R00C22A2000000/
- 毎日新聞|石原慎太郎さんの「小道具」 排ガス規制の象徴、劇的な効果|https://mainichi.jp/articles/20220202/k00/00m/010/363000c
- 佐野眞一|てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎|講談社
- 石原慎太郎|弟|幻冬舎
- 栗原裕一郎,豊崎由美|石原慎太郎を読んでみた|原書房
- 朝日新聞(1967年10月4日付朝刊)
- 飯島清|人の心をつかむ法 科学的選挙戦術応用|番町書房
- 太田欣三|東京は燃えた…|創世記