【原子爆弾】いつ作られた?特徴や仕組み、広島・長崎の被害やその後などを解説!
【忘れてはいけない4つの日】原子爆弾・原爆とは?
1945年8月6日に広島、8月9日に長崎に原子爆弾が投下されました。
2024年現在、世界で唯一核兵器が実践使用されたケースになります。
終戦から80年近く経つ現在も、8月には日本各地で慰霊の機会が設けられています。
今回は、原子爆弾について解説していきます。
原子爆弾とは?
原子爆弾は、核兵器のひとつで、ウランやプルトニウムといった元素の原子核が2つに分かれ(核分裂)エネルギーを放出する仕組みを利用しています。
通常の兵器と比べ、威力が極めて大きく、大量破壊兵器に位置付けられています。
原子爆弾の特徴
原子爆弾は、従来の火薬による爆弾と比べ、強力な爆発力を持っています。広範囲に熱線を放出し、火災を起こしたり、人体へは火傷を負わせたりといった被害をもたらします。
また、火災や爆風の影響だけでなく、原子爆弾が発する放射線の影響による健康被害をもたらすのも特徴です。
放射線による被害は、投下されたタイミングで被害を受けてなくとも投下後にその地域に立ち入った人に対しても及びます。
原子爆弾の仕組み
原子爆弾の仕組みは、ウランやプルトニウム原子の原子核に中性子と呼ばれるものを当てて、人工的に核分裂を引き起こすというものです。
この核分裂が、ごく短い時間に次々と起こり、瞬間的に生み出される非常に強大なエネルギーを利用しています。
広島・長崎への原爆投下
原子爆弾は、1945年8月6日に広島、8月9日に長崎に投下されました。
ここからは、それぞれの被害や経緯をみていきます。
8月6日 広島市への原爆投下
第二次世界大戦・太平洋戦争末期の末期の1945年8月6日午前8時15分に広島市へ原爆が投下されました。
アメリカ合衆国が、原子爆弾「リトルボーイ」を使用しました。
これは、人類史上初の都市に対しての核攻撃でした。
被害
死者数は、1945年末までに約14万人とされています。なお、当時の広島市の人口は約35万人と推定されています。
熱線・爆風・火災の他にも、被爆後に土地に残った残留放射線の影響で、直接被爆せずとも後に爆心地付近を訪れ、死亡・発病をした人もいました。
なお、軍隊・役場・警察・医療機関等も壊滅的な被害を受けたため、いつ・どこで・誰が亡くなったという記録はほとんど残っていません。
引き取り手のない7万柱の遺骨が、現在も広島市の原爆供養塔に安置されています。
経緯
- 1944年9月:アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのウィンストン・チャーチル首相の間で、日本に対して原爆を使用することが決定
- 1945年4月:第1回目標選定委員会が開催、原爆投下目標の選定が始まる
- 1945年7月25日:原子爆弾の投下目標が、広島・小倉(現在の福岡県北九州市)・新潟・長崎の4都市に絞られる
- 1945年7月26日:ポツダム宣言の発表
- 1945年8月2日:ポツダム宣言を黙殺した日本に対して、8月6日の原爆投下が決定(第1目標:広島、第2目標:小倉)
- 1945年8月6日:広島に原爆投下
8月9日 長崎市への原爆投下
広島市への原爆投下の3日後、1945年8月9日に長崎市へ原爆が投下されました。
アメリカ合衆国が、原子爆弾「ファットマン」を投下しました。
人類史上2回目の核兵器の実践使用で、2024年現在では最後の核兵器使用となっています。
被害
ながさきの平和HPによると、被害状況は以下のようになっています。
原爆当時の状況から正確に被害状況を図ることは困難とされていますが、HPによると「長崎市原爆資料保存委員会の昭和25年7月発表の報告によったものだが、これが今日の通説となっている」としています。
- 死者:73,884人
- 重軽傷者:74,909人
- 全焼:11,574戸
- 全壊:1,326戸
- 半壊:5,509戸
経緯
- 1945年8月8日、翌日に2回目の原子爆弾による攻撃を行うことが決定。攻撃の第1目標は小倉、予備の第2目標を長崎とされる
- 1945年8月9日、第1目標の小倉市上空が視界不良であったため、第2目標である長崎市に原爆投下
原爆投下からの復興
長崎への原爆投下から8日後の1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受けいれ、玉音放送にて日本の降伏を公表しました。
これにより、戦闘が停止され、日本は終戦へと向かいます。
終戦後、広島・長崎のインフラは壊滅的な状況にありました。しかし、GHQの占領下にありながらも、インフラや産業の復興が行われました。
復興後の現在でも、唯一の被爆国として、広島・長崎では毎年平和に向けた取り組みが行われています。
しかし、原爆による健康被害は戦後現在も続いており、被爆者が全員亡くなるまでは、向き合わなければならない課題となっています。
また、両親または両親のどちらかが被爆し、その子供も健康被害等を抱える被曝2世の問題もあります。
戦後復興に終わりはなく、日本がこれからも向き合っていかなければならない課題となっています。
忘れてはいけない4つの日
宮内庁HPには、「忘れてはならない4つの日」として、沖縄慰霊の日(6月23日)、広島原爆の日(8月6日)、長崎原爆の日(8月9日)、終戦記念日(8月15日)が挙げられています。
これは、上皇陛下が皇太子時代の1981年に「どうしても記憶しなければならないことが4つある」と発言したことから来ているとされます。
まとめ
戦後80年近く経つ現在も、原爆投下の影響は日本国内の様々なところで残っています。
このような過去をどう受け止めて、今後に活かしていくべきなのでしょうか?
まずは、原爆投下の過去について知ることが重要です。
参考になるサイト
- ながさきの平和|原子爆弾とは|https://nagasakipeace.jp/search/about_abm/tokucho/
- NHK|原爆が使用されたのはなぜ?どのような被害があった?|https://www.nhk.or.jp/archives/sensou/special/warmuseum/02/
- 国際平和拠点ひろしま|中心からどれくらいの距離に被害がでたの?|https://hiroshimaforpeace.com/nuclear-weapons-elimination-day-2020/q10/
- ながさきの平和|原爆の威力|https://nagasakipeace.jp/search/about_abm/scene/iryoku.html
- 中国新聞デジタル|復興あのとき|https://www.chugoku-np.co.jp/stp/HowHiroshimaRoseFromTheAshes/
- 群馬県HP|被爆二世について|https://www.pref.gunma.jp/page/2518.html
- Yahooニュース|終戦の日 天皇陛下のおことばを振り返る 坂東太郎のよく分かる時事用語|https://news.yahoo.co.jp/articles/deb5f2d67a9422c908fb5fa134a6bbe2be4f212f